おしゃべり蔵元参謀の駄弁

陸奥国 津軽の西の地より、おしゃべり小太り参謀が叫ぶ。

祖母の姿を思い出す 平成最後の8月

「洋平ちゃん」

毎年この時期になると私を呼ぶ優しい祖母の声を思い出す。物心ついた時から深い愛情を注いでくれた祖母。20歳を過ぎても産まれた時から変わらず、私を「洋平ちゃん」と呼び続けた祖母。思春期の頃は昔から当たり前のように呼ばれていたその呼び方が何故か嫌で嫌で仕方がなかった。「その呼び方やめてよ!」と強く言ってしまったこともある。

 

しかし今となってはどんなに願っても、もう二度と深い愛情のこもったその声を聞くことはできない。


祖母は3年前の今日、この世を去った。急激に病状が悪化し、あっという間に逝ってしまった。その昔、長崎に住んでいた祖母は腎臓が悪かった。


1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。疎開していて直撃は免れたが、その後その土地へ戻り、過ごすうちに間接被爆をしたのだった。


結婚し、伯父と私の母を産んだ祖母。その後離婚し、女手一つで子供たちを育て上げた。とにかく働き者で世話好きな祖母は遊びに行けば必ず手料理を、たくさん作って食べさせてくれた。


逞ましく強い祖母の姿。しかし一度だけ祖母の泣く姿を見たことがある。


それは小学校の夏休みの宿題で、祖母に戦争の話を聞いた時だった。


切り出した時から笑顔が消え、淡々と話し出す祖母。


地平線が見えるほど、何もなくなった長崎の街。いつも遊んでくれた坂の上に住んでいたおばあちゃんの家も跡形もなく、水を求めて彷徨ったのであろう幼子を抱えた母の亡骸が目に焼き付いているという。


「どんなことがあっても戦争だけは絶対にしちゃダメよ」


涙を流し、震える声で祖母は私に言った。未来を担う幼い私に託した祖母の願いでもあったのだろう。

 

母も祖母の口から戦争についての話はあまり聞いたことがなかったらしく、語りたくないほどに辛い経験だったのだろう、と思う。

 

祖母は戦後70年の節目の年の広島原爆の日に亡くなり、長崎原爆の日に灰になった。

 

あの日原爆の火に焼かれなかった祖母は人生を全うし、なんとも運命的な日に死を迎えた。


私たち家族の記憶に残る祖母の最期は、私たちに戦争という行為の愚かさと残酷さを忘れずにいてほしい、という祖母の望みの表れだったのかもしれない。